世界がもし100人の村だったら

2006年6月 3日 21:58 | ブログ

「世界がもし100人の村だったら」という番組を見た。世界を100人の村と見たときにどれだけの人が字が読めて、どれだけの人がきちんと食事を食べることができるか、などとこの日本がいかに恵まれているかということを教えてくれる番組である。番組は途中で何度も涙でにじんで見えなくなってしまった。

今の日本の状況は、世界の中で見ればあまりに素晴らしい状況である。私は世界中を見て回る中で、このことを痛切に感じた。こんなにも豊かで、平等で、物にあふれ、やりたいことをやることができるにもかかわらず、税金が安い国はないのである。しかし、私たちの国はとかく自分の周りのことのみに目を奪われがちである。

人間の欲は尽きないものである。そして一度満たされても、それが普通になった瞬間、欲はさらに上を目指し、逆にふれた場合には、大きな不満に変わる。日本で言えば、戦後月給1万円だった人が10万円になって、洗濯機や
冷蔵庫、テレビなどを初めて買ったときには本当に嬉しかったわけである。「Always-3丁目の夕陽」でも白黒テレビに大興奮するみんなの姿を描いている。しかし、テレビを買った人は、さらに車が欲しい、家も欲しい、それも買ったらもっといい車が欲しい、もっと大きな家が欲しい、と欲望と言うのは尽きることがない。しかも、たとえば1000万円と言う高給を取っていたとしても、2000万円あった人が1000万円になってしまった場合と、500万円だった人が1000万円になった場合とでは感じ方が全然違う。後者は喜びと豊かさをその瞬間感じるだろうが、前者は
大いに不満に感じて「誰か何とかしろ」という思いに駆られる。

藤原先生の「国家の品格」でも日本を支えるのは「精神」であると言っている。日本にとっての不幸は、実体のない「バブル」というものを経験してしまったために、景気の感じ方も経済的な感じ方もあれが「普通」になってしまったということである。そして、そのバブル崩壊後、そのつけを払うため、さらにはその感覚のギャップを埋めるため、800兆円もの借金を抱え、将来につけを送ろうとしているということである。

私はそのことを昔から意識し、常に贅沢をしないように、生活のレベルを上げすぎないように律してきた。無論、充分贅沢だと言う批判を頂くこともあろう。今日も夕飯を地元の鰻屋さんで頂いて、昔は高すぎてめったに食べることのできなかった鰻をこうして普通に頂くことについて申し訳なく、そしてありがたい気持ちでいっぱいになった。

しかし、私がこれまで必死にたゆまぬ努力を続け、これからも続けていくのは、決して贅沢をしたり、威張ったりするためではなく、我らが祖国「日本」のため、そして未来の子どもたちのためである。これは私の基軸であってこの思いだけは変わらない。そして、そのことだけは私を支持してくださる方にお約束する。


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